はじめに
新規1万円札になる渋沢栄一の論語と算盤の現代語訳を読み、学ぶことが多かったので今後見返すための備忘録替わりにも読書感想文として書き残しておこうと思いました。サブタイトルの横のページ数は以下の本のページ数を表します。
また、僕の記事の中で他にも読書感想文あるのでぜひ読んでください。(「SDGs入門」)
論語と算盤の概要
渋沢栄一とは、幕末らへんの激動の時代に生きた経済人です。彼が創設に関わった団体には企業ではみずほ銀行や王子製紙、いすゞ自動車、東京電力や教育では一橋大学や東京経済大学など多岐にわたります。また、公的にも大蔵省で活躍したりととても精力的に活動していたことがわかります。
そんな彼の著作でも代表的な「論語と算盤」であり、孔子の説いた道徳的教えが中心である「論語」と経済の代名詞である「算盤」は一見すると相反した概念ですが、本書ではこの「論語」からの視点で経済を説いています。
この本では、社会人としてどのようなことを意識するといいのか、どのように生きていけばいいのか、何が重要かなどを具体的に述べています。今回の感想文では印象に残ったいくつかをピックアップして記録しておこうと思います。
読書感想文
「要約」「感想」の構成で感想文を書いていこうと思います。
先輩と後輩の関係について(p29より)
彼はこのページでは先輩としての在り方を説いています。先輩には二種類の在り方があるとして、「親切に接する先輩」と「敵対的な態度をとる先輩」です。前者は後輩からの人望も厚く、後者は人望が薄いと当たり前のことを言ってますが前者のような態度をとる先輩だけでは成長が見込めず、後者のような先輩のもとでは「一瞬も油断できず、一挙一動に気を使うため」身を引き締めて成長できるといっています。
僕個人としては、全面的には賛成のできない見解ですが、なるほどすべてがすべて全肯定する人間というのは毒となるというのは否定できないと思いました。渋沢栄一は全編を通してバランスの重要さを説いており、争いを好まないと言っていますがここであえてこのようなこと言うのはよほど「ただただいい人」にはひと思いあるように感じます。
商売というのは悪か否か(p97より)
本文の中で古代ギリシャの哲学者アリストテレスの「すべての商売は罪悪なのだ」という一文を取り出して経済活動の善悪を解いています。渋沢栄一はこれについて人間は損得が関わってくると精神面をおろそかにしてモノ偏重になってしまう、この過程で人は道徳を忘れてしまい、まっとうな生き方から外れてしまう。これを戒めるためにアリストテレスは過激な言い方をしたとしています。
しかし、現在(明治時代当初)金銭に対する考え方はずいぶんまともになり、道義と一緒にする形で金銭の本当の価値を利用してほしいと言っています。
僕個人としては、資本主義の社会に染まっているからか経済活動を悪とする考え方はあまりわかりません。しかし、このようなことを説かなければいけないほどに経済活動と罪悪といったものは表裏一体であることは社会人としてつねに悪の道に陥らないように意識していく必要があると感じました。渋沢栄一は悪いことばかりではないといったことを主張しようという意図を感じましたが、今一度経済活動に対する警戒をする必要があると感じました。
キリストと孔子(p147より)
よく日本人は海外と比べて「日本は権利の主張が足りない」といった言説が散見されます。論語も当初「権利思想が欠如している」とされていたようです。渋沢栄一はなぜキリスト教と比べて論語に権利思想が欠如しているかを述べました。これはキリストは宗教家として世に立った人間であり、孔子は宗教を背負って立った人間ではないことに思想の違いが生まれたとしています。孔子は最初は一人の政治家であり、その時代の中国は義務を先にして権利を後にする風潮があり、「自分がしてほしくないことは他人にしない」ことを第一にしています。これに対してキリストは権利思想にあふれた教えを立て、「自分がしてほしいことを他人にしなさい」としています。
このような思想の違いがありながらも両者の教えには共通点があり、キリストの説く「愛」とは孔子の説く「仁」と同一のものと渋沢栄一は言っています。これらのことから、最終的な到達地点は孔子もキリストも同じものだとしています。しかし、渋沢栄一は人間の守る道としては孔子のほうがよいとしている。それはキリストは「奇蹟」を必要としているからとしています。この「奇蹟」に頼ってしまうと人間は迷信に陥てしまうのではないかと疑問をなげかけています。
僕個人としては、これはなるほどと思いました。論語も聖書も明るいわけではありませんが確かに宗教はその絶対性を補完するために奇蹟をしばしば持ち出します。これは現代日本でそういった奇蹟を信じない傾向にあるので今歴史的な思想書を読むのであれば論語というのは受け入れられやすいのではないかと感じました。
順境の人と逆境の人(p211より)
ここに2人の人がいるとします。Aさんは財産も知恵もコネもないが、社会で生きていくために学問を修め十分な素養があったとき、この人は間違いなく成功し、ついには地位も財産も手に入れられるようになります。これを世間の人は順境の人といいます。また、Bさんは生まれつきの怠け者で十分に素養を育まなかったとする、結果彼は社会でうまくいかず、さらには悪の道に落ちてしまうこともあります。これを世間の人は逆境の人といいます。しかし、渋沢栄一はこれらを自分が招いた境遇であるとしています。AもBも生まれたときはおよそ同じですが、12,3歳で少し異なってきて、20歳で差が大きくなり30歳になるとその差は歴然としたものとなるとしています。悪い人間はいくら教えても聞いてくれないものですが、良い人間は教えなくても自分からどうすればいいかわかっていて、自然に運命を作るとしています。
僕個人としては、よく似たような話を周囲の人としていて渋沢栄一と同じ立場になることが多いです。基本的になにかをなせることやその逆というのは先天的なものであり、その「努力」をするという選択肢(渋沢栄一でいう「運命を作る」)をとれることそのものに才能があると思っています。ただ、その先の努力をする人間は優れているかなどといった話になると僕は意見を持ちえませんが…。努力をすることについて考えさせられる話でした。
最後に
この本は面白いと思いましたが、身に染みたかといわれると正直微妙です。今後自分が成長していくにつれて読み方が変わってくると思うので今の自分の考えとしてここに残しておきます。
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